2005年05月17日

日記の質を高めよう

・それを誰かが読むという自覚があるのか

 一応日記系やってる人間として、日々の巡回の中で「これってどうなん?」と思う日記をちらほら見かける。WEBサイトのコンテンツとして日記を公開しているということは、世界中のあらゆる人がそれを見る可能性があるということだが、なんていうか……その自覚があるのかな? と疑問を感じることがある。ましてblogサービスを利用した日記の場合、サーチエンジンの検索結果の上位に食い込む可能性が高くなる。1日あたりのアクセス数が1桁のサイトであっても、サーチエンジン経由で人が流れてくる可能性が高くなる。そんな状況であるにも関わらず、「それでいいの?」って感じである。

 以下の文章は、サイト運営暦5年、うち日記系サイト運営暦3年半程度の若造が何を偉そうにという気持ちはグッと抑えて頂いて、日記系サイト管理人としてテキストサイトの繁栄・縮小・blogへの推移を見てきた人間の戯言程度に思って読み流してもらえばいいかなーと思う次第でございます。



・書いただけの日記

 「今日は○○がありました。疲れたー」
 「今日、美容院に行ってきましたよ」

 流石にここまで投げっぱなしの日記というのもなかなか見ないが、あと一言、あと一捻りが足りないように思える日記を見かける。世の中には、何でもない出来事をさも面白い出来事のように書く才能を持つ人がいるが、別にそのレベルにまで達しろというわけではなく、「普通の出来事を面白そうに書く」という努力をしてみるのも大切じゃないだろうか、ということである。あまり褒められた手段とは言えないが、自分の気持ちなどについては多少誇張するのも手かもしれない。
 他にも、その出来事の前後に起こったちょっとした出来事を組み合わせることで、日記としての質がグンと向上するということに気づいてもらいたい。

 僕は才能が無い人なんで例として成り立っていないかもしれないが、例えば
  「今日は○○がありました。 も う 足 腰 立 た ん」
  「今日、美容院に行ってきたんだけど……その時の髪型が再現不可能なんですが」
 見たいな感z……ここまで才能無いと返って清々しいね! 死にたい。



・観客おいてけぼり
 
 上記の『書いただけの日記』よりも見掛けることが多いのがこの形式である。著者重視一点突破というか、周りが見えてないというか。自分が書いた日記・書こうとしている日記を客観的に判断することができていない。「この日記はここを訪れてくれた人に向けて書いている」という意識があったとしても、「果たしてそれが観客にとって読む価値があるかどうか」という判断ができていない。「読む価値があるかどうか」というのは語弊を孕む表現ではあるが……客がその日記を読んで「へー」とか「ふーん」とか「ギガワロスwww」とか「可愛そうに」とか「大変そう……」とか、その日記に対して「……それで?」「……は?」といった呆れ半分な感想"以外"を抱くかどうか、という判断ができていない。こういう日記は得てして客の「日記を読む」というニーズすら満たせない、ただの報告、ただの自己満足になる。

 あなたは誰にその報告をしているの?
 あなたが合いの手代わりに入れたその一言、笑いというより悲壮感を生んでいるよ?
 スピード感は認めるけど、あなたしか知らない情報を含んだネタでは笑えないよ?



・投稿前に最終確認を

 とはいえ、自分の書いた記事を完全に客観視することはすごく難しいことだと思う。完全に客観視するなら最低でも半月はその記事を寝かせておく(自分の記憶から除外する)必要がある。かといって日記というのは鮮度が命なわけだから、半月も寝かせるわけにはいかない。というか基本的にその日にあったことなんてのは時間が経てば単なる記憶なわけだし、単なる記憶をわざわざ後日WEBにアップロードするなんてバカらしくなってくるものである。だから日記をアップロードするにはやっぱり書いたその時、その時点での勢いみたいなものが必要なわけで、そうなると日記というのは「著者が完全な客観視をもって記事を判断した後にアップロード」なんてことは不可能ってことになる。
 「なら客観的な判断なんて必要ないね」とは問屋が卸さないわけで。じゃあ何が必要かっていうと「不完全でもいいから客観的に記事を判断する」ってこと。何もしないより記事は格段に向上する筈。
 具体的にはどうすればいいかというと、記事を投稿する前に最低1回は記事を読み直す。こうすることで誤字や誤文法のチェックにもなるし、内容についても「ここは削ろう」とか「あれを追加しよう」とか「こういう技法を使ってみよう」という発見にも繋がる。ただし、修正を行ったら必ずもう一度最初から読み直すこと。修正を行うことにより他の文章との整合性がとれなくなってしまう可能性があるからである。

 読み直す。そんな単純な作業をたった1度するだけで、日記は楽しさを増し、日記としての価値を高めてくれるだろう。
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2005年05月02日

過激派フェミニズムが目立ってきたような希ガス

・女性専用車両ができるようです

 毎日毎日、家から会社まで電車で20駅をガタゴトと揺られながら通勤しているわけですが、周りの路線の影響か、僕が使っている路線にも(朝のラッシュ時に限り)女性専用車両が設けられるようです。
 女性専用車両というのは世間的に見て確かに必要なものでしょうし、僕も基本的には賛成です。世の中には下種い野郎が腐るほどいるし、そういったカスから女性を守る方法として女性専用車両というのは有効だと考えています。
 しかし。どんな路線にも女性専用車両を設けりゃいいってもんじゃないわけですよ。
 僕が使用している路線は朝のラッシュ時ですらその場でグルグル回れる程度の空間が存在するわけで、身動き一つできない(痴漢が多いことで有名な)埼京線などと比べると雲泥の差なわけで、そんな路線で痴漢を働く奴なんてのは単なる命知らずに他ならないわけです。現に、就職してから今日までの一年と一ヶ月の間、痴漢検挙シーンはおろか痴漢シーンすら目撃してないわけで、全く無いわけではないのだろうけれど無い日の方が多いのが実際ではなかろうか。そんな路線に女性専用車両とは、フェミニストの世論とは怖いものだと身震いする次第である。



・尼崎脱線事故

(以下の内容はソースが不確定な情報も含まれているため、間違いなどがあったらご指摘願いたい)

 女性専用車両といえば、先週起った尼崎脱線事故の3両目が女性専用車両だったという話を聞いた。こういう言い方をすると大変申し訳ないが、全車両のうち半分以上が脱線してしまった事故である故、女性専用車両が存在する時点で巻き込まれてしまったのは半ば仕方が無いことではないかと思う。だが聞いた話では一部のジャーナルに「前方に女性専用車両を置くなどとは、安全配慮に欠けている」という記事が載ったというのだ。フェミニストによるフェミニストのための情報操作である(僕はこの記事を確認していないため、記事が載ったという煽りこそが情報操作なのかもしれないが…)。
 果たしてこの件に関してJR西日本を責め立てることができるであろうか。否、それは不可能だろう。
 前方に女性専用車両を設置した場合、今回のような脱線事故や、他車両や物体への衝突事故の危険性がある。後方は後方で、追突事故の危険性がある。前方だろうが後方だろうが事故が起る危険性、そしてその際に陥る危険度というのは対等であり、そもそも電車という施設はそのような危険性を前提とした乗り物であるということを忘れてはならない。そう考えると、前から3両目という比較的中間に近い位置に女性専用車両を設置したJR西日本の姿勢を、むしろ褒めてやる必要があるのではないだろうか。



・『男尊女卑』=『女尊男卑』= 悪制

 ジャーナリズム(マスコミ)の煽りか、市民団体の煽りか、田/嶋/陽/子の煽りかは知らないが、どうも最近勘違い甚だしいフェミニストが目立ってきているように思う。ジェンダーフリーに関してはいずれ別の機会にしっかり書きたいと思うが、まず頭に置いておいてほしいことが1つだけある。
 『男尊女卑』の体制は確かに良くない。女性の台頭は時代の流れとして至極自然なものであるし、男はそれを受け入れ、『男尊女卑』の体制を崩していかなければならない。しかし現在、過激派フェミニストが目指している体制──『女尊男卑』──では駄目なのだ。あくまでも男女が共に尊い──『男尊女尊』──であることを目指さなくてはならない。

 男性と女性とでは身体的、精神的基礎能力が違う。従ってジェンダーが完全にフリーになることはありえないと思う。それは認めるべきである。それを認めた上で、性によって虐げられることのないという点で男女が平等な制度を考えていかなければならないのではないだろうか。
 




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尼崎脱線事故につきまして、まず第一に今後このようなことが起らないよう徹底的な原因究明と体質改善を行って頂きたいものです。
最後になりましたが、お亡くなりになられた方のご冥福と、心身に深い傷を負われてしまった負傷者の方々の早急の回復をお祈りしております。
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2005年04月06日

面白い日記を書くのに必要なスキル

他人の書く『普通の日記』ってすっげぇつまらない

 僕は一応、自分の中で「これは特筆すべきだ」と感じたことについて日記を書いているけども、閲覧者から見たらそれが『普通の日記』にしか感じないかもしれない。その辺が難しいところだとは思う。
 ただ、別に何事でもない日常をぐでぇーっと書き散らす日記の多いこと。しかもそういう人に限って毎日更新をするし、更新できなかったら「更新できなくてすみませんでした」といった旨のコメントを書く。あるいは「今帰ってきましたー。眠いんで今日はこれぐらいで」みたいな糞エントリーを書く。そんなことを書くぐらいなら、2日3日間が空いてでももっと面白い話を書けというのに。『更新できなかった理由(言い訳)』なんて訊いてないし、聞きたくない。そういうサイトは大抵1日あたりの閲覧者の数が少ない。



『普通の日記』だけを晒してる人はニュースに疎い

 日記あるいは日記系テキストを公開している人の大半は自己主張欲を満たしたい人だ。「聞いて聞いて!今日こんなことがあったんだよ!」とか「俺、こんなこと考えた(考えてた)んだけど、聞いてくれる?」といった感情が初期の更新の源であると思う。
 それに対して『普通の日記』ばかりを書く人はどうなのだろうか。答えは同様に『自己主張したい人』なんだと思う。「更新できなくて〜」というコメントを書いていることから、読み手の存在を意識している(自分の日記をなんとなく晒している露出狂とは違う)ことがわかる。
 では『面白い日記』の著者と『普通の日記』の著者の差は何か。それは『ニュースに詳しい人と、疎い人の差』であると思う。ここでの『ニュース』とは『珍しい出来事や新しい出来事』のことを指す(goo辞書より)。ニュースに詳しい人は自分の書こうとしているネタがニュースかどうかの判断を精確に行うことができるのだが、逆にニュースに疎い人は世間のニュースをあまり知らないがために自分のネタのニュース度を見誤るのである。



『普通の日記』が面白くなる例外

 ただしそんな『普通の日記』が面白く感じる場合がある。それは『普通の日記がサブコンテンツである場合』である。メインコンテンツがテキストであっても、個人を主張しないコンテンツである場合、『普通の日記』の価値が大幅に増大する。『普通の日記』から『このコンテンツを作成している人の素性』に変質するのである。
 しかし難しいもので、メインコンテンツに魅力がなければやはり『普通の日記』は『普通の日記』でしかない。下手糞な絵が飾ってあるサイトの『普通の日記』と、それで飯を食っていけるんじゃないかというぐらい上手な絵が飾ってあるサイトの『普通の日記』とでは印象が違うと思う。サブコンテンツとしての『普通の日記』の価値は、メインコンテンツのニュース度と比例するのだろう。



 面白いと思わせる日記を書く第一歩は、時事ニュースを収集したり他サイトを閲覧したりしてニュース度の判断精度を高めることではないだろうか。
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2005年04月01日

エイプリルフールについて

 気がつけば4/1だったりする。あちこちでエイプリルフール企画を見かける。最近は昔と違い、閉鎖ネタは少なくなってきたような気がする。さすがに『4/1に閉鎖宣言』というのはインパクトもクソもなくなってきたということだろうか。4/1に閉鎖宣言を出し、目に付くところに「これはエイプリルフールのネタです」と書いておいて、4/2に本当に閉鎖しちゃうぐらいのことをしないとネタとしては弱いかもしれない。
 そんな昨今なもんで、インパクトの強い嘘ネタとか嘘企画を考えないとと毎年思うのだけど、そういう企画すら思いつかないもんだからインターネットの隅っこで細々と日記を書く青年にとどまっているわけで、だったらあんまりエイプリルフールとか気にしないで普通に日記書こうかなぁと思っている所存でございますおりはべりいまそかり。それに、blogだと大幅なページレイアウトの変更ができないのでどうしてもダイナミックさに欠ける、というのも理由の一つ。しゃーないので普通にエイプリルフールについての話でもしようかな、と。



 エイプリルフールの起源は諸説あるが、そのうち一番有力とされているのは次の説である。
 フランスではユリウス暦が採用されており4/1を新年(元旦)として祭りを催していたが、1564年にシャルル9世によりグレゴリオ暦(1/1を元旦とする暦法)が採用された。しかしそれに反発した人々が新年の贈答などを1/1に行わず今までどおり4/1に行っていたことから4/1を「嘘の新年」と呼んだというのが始まりである、という説だ。その後200年以上の時間をかけながらイギリスを経てアメリカに伝わり、そこから日本に入ってきたというのである。

 続いて、どうしてエイプリルフールは「嘘をついてもよい日」になったのか。これはイギリスでのとある事件が原因となっている。
 1702年4月1日のことである(余談だが1702年といえば赤穂浪士の討入りがあった年である)。イギリスのブリストルにあるセント・メアリー・レッドクリフ教会(14世紀に建てられた。かのエリザベスI世が「イギリスで最も美しい教会だ」と絶賛したほどの教会)にマンソンという神父がいた。その日(4/1)、彼の娘であるモスの結婚式が執り行われ、その進行を父であるマンソン神父が行った。しかし結婚を認めたくないマンソン神父は、式が全て終了した後に「本日執り行った儀式は全て私の戯言であり、一切効力は無いものとする」と宣言し結婚式自体を有耶無耶にした、という親馬鹿全開な事件が起きたのである。
 ブリストルは17〜18世紀にかけてアメリカとの貿易が盛んだったとされている。貿易を行う商人や船乗りによってこの話がやや湾曲してアメリカに伝わったのではないかと考えられている。


このあたりの詳しい話については、このサイトが詳しく論じているので参考にしてもらうといいかもしれない。
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2005年03月24日

[教育] 2. 『みんな100点を取れるように』することは可能か? 有用か?

 まずは『みんな100点を取れるように』について考えてみる。
 意識すべきことは、テストの満点を100点と定めたとき、問題内容がどのようなものであろうと[200点分頑張って勉強し100点を取る子]と[100点分勉強し、100点を取る子]と[あまり頑張らずに50点しか取れない子]と[頑張っても50点しか取れない子]が出てくるということである。その中でどの子が偉いとか、どの子が劣っているとかそういう問題ではない。事実として200点分やら50点やらという数字(実績)は、100点という数字(基準)についてくる(相対性を持っている)ものであって、基準の程度を下げるということは実績の程度も下がるということなのだ。
 [ゆとり教育]により、今まで1〜100まで教えていたことを1〜80までしか教えないことにした。つまり後に習う(応用力が必要な)難しい81〜100までの部分は授業時間の減少により削減された。しかし100人中100人が1〜80までで躓かないかというと決してそんなことはない。81〜100という部分が『非常に躓きやすい部分』であったとしても、1〜80は『決して躓かない部分』ではないのだ。円周率を[3.141592]にしようが[3.14]にしようが[(およそ)3]にしようが、公式を覚えられない(覚えようとしない)子は円の面積を求めることができないのである。
 まして小中学生などというのは実に多感な年頃である。遊びから恋愛まで、様々な誘惑を受けている。そしてその誘惑に付いて行く。もちろんこれは悪いことでも何でもない。子供の時にしかできないことは子供のうちにやるべきだし、成長期にやっておいて損はないことはやっておくべきなのである。従って勉強に対して100%意識を向けろということは決して正しい指導ではないと考えられるため、どれだけテストの問題が簡単になろうが全員が100点を取ることは望めないし、望むのもどこか間違えているのではないだろうか。


(つづく)
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2005年03月23日

[教育] 1. まえがき

 ゆとり教育が学力を低下させているという意見はよく聞かれることであるが、果たしてどうなのだろうか。昨今の教育に関する考え方というのはどうなのだろうか──もちろんここで結論を出すつもりはないが、ちょっと色々あって僕の考えをここにまとめておくことにする。
 途中で子供を犬猫と並べる発言をするが、それを見て「子供と畜生を同列に考えるなボケカスめ」と憤慨する人もいるでしょう。そういう人は読まなくていいッス。これは僕の考え方であり、その考え方を万人に押し付けようとしているわけではないので。「こういう考え方をする人もいるのか」という見方をできる人だけ読んでください。
 これから述べるのは一人の日本人男子の意見であり、正論でも世界の代弁でもありません。



 まず[ゆとり教育]について定義しておく。ここで言う[ゆとり教育]とは、[2002年に改定された新指導要領による学習][総合的な学習][学校完全五日制による授業時間の減少]を指す。
 ゆとり教育の発端は1985年に遡る。[詰め込み学習]に対する問題が持ち上がり、当時文部省の役員だった寺脇研氏が推し進めた方針である。基底には『みんな100点を取れるように』とか『非行(いじめや万引き等)に走らないように』という考えがあったらしい。僕はちょうどこの[寺脇氏推進 ゆとり教育]を受けていた(ただし[授業時間の減少]の影響は受けた。僕が小学校に入学してから高校を卒業するまでの間に毎週土曜日登校から第ニ土曜日休日になり、第二,第四土曜日休日を経て学校完全五日になった。しかし高校は普通科ではなかったため、元々普通科目の授業数が少なかったので、僕は[授業数の減少]について感じたことは殆どなかったりする)。しかし[寺脇氏推進 ゆとり教育]を受けてきた僕という一人の人間から見て、寺脇氏の望んだ『みんな100点を取れるように』『非行に走らないように』という思想が達成されたとは微塵にも思えなかった。


(つづく)
posted by 鵺猫 at 15:39| Comment(0) | TrackBack(1) | 長文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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